帰りの車で、おかしな事をくちばしった

"そういえば、富士山みてないね?"


去年の秋に友人とコスモスを見に行った。

そのときに、友人がiPhoneのカメラを使って

こうやって写真をとると面白いよ?

と言って、

画面をのぞかずシャッターを押した写真をみせてくれた。

同じ方法で試してみて

とれた写真で、これがお気に入り。

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普段見えているけれど見えていないもの

視点を変えてみることによって見えるもの、見えないもの

視点の変えてみる方法によっても見えるもの、見えないもの

見えているような気がすること、もの


そんな事を改めて考える富士登山だったなと、今


車で富士吉田に着いたときも帰りも曇っており、

地上から富士山のあの見事な裾野まで広がる様子を見ることはできなかった

一般的に富士山とはあの形ではないか?

という、固定概念によって、富士山みてないね

なんていう、おかしな表現が出てきたわけで。

だって、私の目の前に広がるそのすべての景色が

富士山を含んでいたのにも関わらずね。


そして、その目でみたものについて。


私がみたものすべて。

その景色が線を持って、

よりはっきりとした線を描く瞬間っていうのは

光が射している方向や明るさによって

偶然に出来上がったものなんだって

雲や、地形の不思議な形や、

人が歩いて作り出した、なんとなく曲がりくねった道や、

ヘッドライトが照らすつづら折りや、

富士吉田の街並みに沿って光る、直線的な光の点在、

すべては二度と見る事ができない偶然の出来事として、

私の脳裏に鮮やかに彩られた2日間となった。


それから、

高山病で遠くなる意識の中で

何度も、思い出したことがあった。

繰り返される、いつかみた風景、その形や、言葉までも。

何となくは気づいていたけれど。

目に見えないものまで見せようとする

非日常のあの山はやっぱりなにか力があるのかもね。

多分これも、富士山に登らなければ気づかなかった事のひとつ。

まいったね、今は、そんなかんじ。